カメラマンの今井恭司氏(72=新潟県柏崎市出身)が昨年8月、
日本サッカー殿堂入りした。ファインダーを通して半世紀近く日本サッカーの歴史を記録してきた今井氏。プロ化やW杯など夢にも思わなかった70年代からJリーグ発足、W杯出場と激動の時代をサッカーとともに歩いてきた。選手からも、同僚からも、サポーターからも愛される同氏の魅力に迫った。
 東京都内の今井氏の事務所、多くの写真、本に囲まれながら、今井氏は柔和な笑顔をみせた。新潟県出身の72歳。高校入学のために東京に出てから、もう50年を超える。それでも、当時の風景は覚えている。
 今井 雪がすごい所でした。あの時代ですからね。小学校はスキーで通うんですが、車は通れないから物資が来ない。新聞なんかも日付通りに届かない。お歳暮にみかんをいただいても、届く時には腐っているんですよ(笑い)。ただ、自然はあったから遊びには困らなかったですね。
 東京で高校に通い、大学では写真を学んだ。当時はサッカー関係の仕事をするとは思っていなかったが、専門誌から頼まれてペレがいたサントスFCと日本選抜の試合を撮ったのが、サッカーとの出合いだった。
 今井 軽い気持ちで手伝ったんですが、離れられなくなった。選手とも仲良くなって、日本リーグや日本代表の試合を撮るようになった。ずいぶん遠征も行きました。帯同するスタッフなどもなく、監督が雑用をやっているような時代。カメラマンも僕だけだから、何でもやりました。
 写真を撮るだけではなかった。原稿を書き、移動の手伝いをし、時にはチームのマネジャーのような役割までこなした。今と違って取材するメディアもいなかった。サッカーファンにとって、今井氏は唯一の情報源だった。選手の信頼も厚く、選手との距離も近かった。93年Jリーグ発足、98年W杯初出場にも当然のように立ち会った。感動は誰よりも大きかった。

今井 今まで多くの選手や関係者が苦労してきた。その積み重ねがあったからW杯に行けた。そう思うと泣けてきました。カメラマンでいてよかったと。
 昨年8月、サッカー殿堂入りが決まった。元日本代表監督の加茂周氏と同時、カメラマンとしては初めてだった。8月31日のW杯予選オーストラリア戦が行われた埼玉スタジアムでは試合後、多くの後輩カメラマンに肩車され、その偉業をたたえられた。
 今井 試合後に呼ばれ、びっくりしました。本当にうれしかった。僕で(殿堂入りが)いいの? という気持ちはあったけれど、他のカメラマンや昔から苦労してきたサッカー関係者が喜んでくれて、いただいてよかったと思っています。
 9月の掲額式典では多くの後輩記者に喜ばれ、オフィシャルカメラマンを務めるJリーグ千葉のサポーターにも祝福された。今でも現場を飛び回り、サッカーを撮り続ける。行動力と誰からも愛される人柄は、少しも変わらない。故郷の新潟にはほとんど帰らないが、その思いも口にした。
 今井 以前は帰りたいとも思わなかったけれど、年をとったんでしょう。今は懐かしく思い出すし、帰りたいと思うことも多くなりました。でも、まだまだサッカーは続きます。ずっと追いかけていきたいし、撮り続けていきたいですね。
 今井氏は、これからも柔和な笑顔で日本サッカー界を見守っていくはずだ。【荻島弘一】

 ◆今井恭司(いまい・きょうじ)1946年(昭21)1月11日、新潟県刈羽郡高柳町(現柏崎市)生まれ。東京写真大(現東京工芸大)卒業後、写真家のアシスタントを経て広告写真のカメラマンとして活動。72年からサッカーカメラマンとして日本リーグや日本代表を取材し、W杯も82年スペイン大会から現地取材を続ける。85年に「スタジオ・アウパ」を設立。後進の育成にも取り組む。昨年8月、日本サッカー殿堂入りした。