協会創立七拾年を祝い 日本蹴球外史 竹内至氏:著
1991年(平成3年)3月発行
P227 十、ビルマの留学生たち
多数来日していた。その中にモン・チョー・デイン、モン・エフ・ペー、
モン・モンの三人がおり、無聊をかこって、東京市内の広場でボールを
蹴って遊んでいた。偶々大塚の高師のグランドに行くと大勢の人が
ボールを蹴っていると教えられた。大正九年秋の始めから大塚の
高師グランドに遊びにきて、附属中学の生徒と遊んだ。その頃の記憶
のある人が岡山俊雄(附中→松本高)山路誠(附中→一高)である。大正
九年の秋には【全関東チーム】が結成されて、第五回極東大会(上海)の
為高師校庭で附属中学生相手に毎日練習を始めた。チュー・デインと
エフ・ペーの大塚通いは毎日となった。無事【全関東チーム】が日本代表と
なって、上海の極東大会に向かった。
早大のグランドで練習している処にチョー・デインが遊びにきた。
彼も背丈が高いほうで走高跳を得意とした。その後一緒に練習する機会
がり、蹴球の話も出て早高、鈴木重義の紹介をうけ早高蹴球部コーチを
委託され「二日間のコーチ後、余は同チームに大いなる進境を見受け、
数回のコーチを経て、同チームは全国高校蹴球大会の優勝たる名誉を
獲得した」と誌している。大正十一年の秋には早高のコーチと彼の指導書
(HOW to play Association Football)の準備で高師のグランドに通って
いた。本の中の写真は附属中学の春山、児島、真鍋(附中→水戸高)
本田(附中→早高)がモデルになって何枚も撮した。帰りには神楽坂の
崖ぷちの下宿に誘われて、自分で七輪で炭火をおこして料理を作って
くれた。
附属中学の生徒達はチョー・デインよりもモン・エフ・ペーさんにコーチを
受けた。彼の方が日本人と同じくらいの小柄な体格で、非常に真面目な
プレヤーであった。チョー・デインはどちらかと言えば狡賢いプレヤーを
教え、早高チームは彼のお弟子であった。附属中学のプレーはモン・エフ・
ペーさんの流れを汲むようになった。
ジョー・デインさんの書いた本は、今日読んでも立派なことが書いてある。
◎蹴球家に対する忠告
一 競技中は、絶対に利己的、即ち自分一個の功名を想わぬように
すること。
二 Union is Strength play the Games and not the Gallery。
三 所詮 スポーツマンであれ。
四 敵を背部より攻撃する勿れ。これは紳士として最も恥ずべきこと
である。
五 奇声や不快なる声を発せぬこと。
六レフェリーに対して絶対に従順なること。
あと略。