【蹴球亭】サッカー感戦家 日本代表サポーター&FC東京SOCIO

2019.09.01ヤフーブログから引越ししたサッカー三昧のブログです。

【訃報】デットマール・クラマー氏

友人からLINEで訃報の知らせが。
 
体調が良くないと聞いていたが。。。
 
日本サッカーの父とか言われてます。
 
東京オリンピックベスト8 メキシコオリンピック銅メダルの獲得。
 
日本サッカーリーグJSL)の創設など多大な貢献してます。
 
合掌。
 
日本サッカー協会もHPで迅速にアップしている。以下HPより
 
デットマール・クラマー氏の訃報に際し、
大仁会長、川淵最高顧問よりお悔やみの言葉
 
「日本サッカーの父」と称されたデットマール・クラマー氏が9月17日(ドイツ時間)、ライト・イム・ヴィンクル(ドイツ)で逝去されました。享年90歳。
ここに故人の生前のご功績を偲ぶとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。
クラマー氏の訃報に接し、公益財団法人 日本サッカー協会会長 大仁邦彌、最高顧問 川淵三郎からのお悔やみの言葉をお伝えいたします。

公益財団法人 日本サッカー協会会長 大仁邦彌

突然の訃報に驚いています。
日本サッカーの近代化は、クラマーさんによってもたらされたと言っていいでしょう。私も現役時代にクラマーさんの指導を受け、基本を徹底的に教えられました。特にインサイドキックを繰り返し指導されたことが懐かしく思い出されます。クラマーさんのお陰で日本サッカーリーグJSL)が創設され、それがJリーグにつながりました。クラマーさんがいらっしゃらなかったら今の日本サッカーの発展はなかったでしょう。
サッカーの話をし出すと止まらず、その熱意にはいつも驚かされました。サッカーへの情熱は最後まで変わらなかったと思います。
日本サッカーの大恩人の訃報を、日本全国のファンも関係者も悲しんでいると思います。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

公益財団法人 日本サッカー協会最高顧問 川淵三郎

クラマーさんと初めてお会いしてから55年。サッカーだけでなく、人生そのものを教えてくださった恩師で、今の僕があるのもクラマーさんがいてくれたからこそです。
これまでも何か気づくと必ずアドバイスの電話をくださり、その度に勇気づけられました。息子さんを亡くされたときに初めてクラマーさんの涙声を聞き、僕は「日本に僕たちクラマーさんの息子が大勢いるんだから、いつでも会いに来てください」と伝えました。
最後に話したのは去年。そのとき、「寂しいね」と、初めてクラマーさんの弱音を聞きました。
1960年当時、日本はアジアの弱小国でしたが、クラマーさんは、選手を一人前の紳士として扱ってくれた数少ない指導者で、あれほど真摯に、すべてを懸けてサッカーと人生哲学を伝えようとした指導者を僕はクラマーさん以外に知りません。クラマーさん、心から感謝しています。安らかにお眠りください。

デットマール・クラマー氏 略歴

1925年4月4日、西ドイツ・ドルトムント生まれ
1960年、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)に向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。以後、わが国の強化、指導者養成、ユース育成等の礎を築き、日本サッカーの父と称される。第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の3位入賞・銅メダルに多大な貢献をする。1969年、千葉で開催された第1回FIFAコーチングスクールでは、スクールマスターを務める。その後もFIFA専任コーチとして世界70ヶ国を巡回指導。
1988年、茨城で開催されたFIFAコカ・コーラワールドユースアカデミーでの講師を務め、1989年、JFAの招聘により9回目の来日。2年間にわたり特別コーチを務める。
本国では、西ドイツ協会コーチ、バイエルン・ミュンヘンバイヤー・レバークーゼン等のビッグクラブの監督を歴任。バイエルン・ミュンヘンの監督として、ヨーロッパチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)2連覇を果たす。
また、アメリナショナルチーム監督、サウジアラビア代表監督、韓国オリンピック代表コーチ、サウジアラビアギリシャのトップクラブの監督を務める。
1971年 勲三等瑞宝章、1996年 日本サッカー協会75周年記念功労賞
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
 
日本サッカーの父」と称されたデットマール・クラマー氏が9月17日(ドイツ時間)、ライト・イム・ヴィンクル(ドイツ)で逝去されました。享年90歳。
ここに故人の生前のご功績を偲ぶとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。
クラマー氏の訃報に接し、公益財団法人 日本サッカー協会最高顧問 岡野俊一郎からのお悔やみの言葉をお伝えいたします。

公益財団法人 日本サッカー協会 岡野俊一郎 最高顧問

1960年初めて来日したときに羽田空港で出迎えたのが最初の出会いでした。それからちょうど55年、兄弟として長い付き合いをさせてもらいました。日本のサッカーのみならず、スポーツ界全般に大きな影響をもらたし、我々をサッカーの指導者として育ててくれたデットマールの逝去は誠に悲しいことです。死の直前まで毎月のように電話をもらい、もう一度日本に行きたいと語っていたが、それを実現できず、残念であったろうと思います。私も生前もう一度会いたいと願っていたが、その願いも叶わず、残念の極みです。日本のサッカーをこよなく愛し、その成長を心から願っていた彼が、父デットマール一世と息子のデットマール三世の二人と一緒に天国で三人のデットマールが安らかに語り合っていることを願うのみです。